子供の頃から発掘にはロマンを感じている。


子供の頃、自宅近くに小学校建設予定地があって、そこは長い間

手つかずの雑木林になっていた。

アケビや野生の栗林があって実を採ったり

池があって駄菓子屋で酢イカを買い木の棒で簡易つりざおを作って

ザリガニ釣りをしたり、オタマジャクシを採ったりと子供たちの格好の遊び場だった。

当時はそれほど感じていなかったが今考えると、とても自然豊かなところだった。

そこに漬物石よりも4倍重い石がひっそりとあった。

いつしかその石を掘り起こすことに夢中になった。


その石は、なんとシダの化石だったのだ。


図鑑で見た何億何万年も前の古の植物かと思うと心ときめいて

「こいつは、すげぇーモンを見つけちまった・・・」となった。


これを持ち帰るべく転がしながら家まで運ぶが、そんなものにロマンを感じない親は

直ぐに捨ててきなさい!と無慈悲に言い放ち

再び元あった場所まで泣きながら転がして捨てに行った。


そんなことも忘れかけた頃、小学校新設のための造成が始まって雑木林はなくなってしまった。

自分はその小学校には通えず、はるか遠い小学校まで徒歩で通っていた。

忘れ物したら諦めないとならない、それくらい当時の自分には遠かった。

決して忘れ物をした際の言い訳ではない。

外灯がほとんどない森を切り開いたような通学路で寄り道し放題。

自生の桑の実を採って食べたり、ワラビやぜんまい採りながら帰ったり

寄り道が普遍的な日常の習慣となっていた。

そんなある日、通学路沿いにある空き地に埋没している

『泥めんこ』を掘り起こすとういう遊びが流行った。

泥めんこと言うのは1円玉くらいの大きさでおかめやひょっとこ等の面を

粘土で素焼きしたものである。


泥めんこについて詳しく解説されているサイト


当時、泥めんこの名前も価値も知らず、石蹴りの石と化しておりぞんざいな扱いだった。


ところが近年、昔こんな事あったと回想している時に

そう言えばあれなんだったんだろうと思いネットで調べたのがきっかけで泥めんこの名前を知った。

そうしたら泥めんこは江戸時代の子供の遊び道具と言う事がわかり、

そんな昔の貴重な物をぞんざいな扱いをしてしまった当時の自分を

反省しそして再び心ときめいた。



泥めんこ見つけたい・・・・・・と。



取りあえずあの場所どうなっているだろうと気になった。

ストリートビューはこういう時にはとても便利である。

ところが、ところがである。

当時、泥めんこがあった場所はすっかり住宅地になっていた。というか

通学路は全く昔の面影がなくなっていて、えッ!ここってこうだったっけ?と半信半疑になった。

思い出の場所はそれっくらい風景が変わっていたのだ。

仏教でいうところの 色即是空 空即是色・・・万物は変化し無になり再生する。

過去を受け入れ未来にとらわれるな、と言う事なのか。


そのあと、泥めんこの事はすっかり忘れ、あそこはどうなった?とストリートビュー巡りが

始まったのは言うまでもない。


いまだ、ちょっとした空き地に出くわすと何か埋まっているんじゃないかと

ロマンを感じてしまうじぶんがいる。