こやすのうつぼの思う壺

今日一日の自己満足を綴るブログ

カテゴリ: 取材のこと

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何処でしょう?

ヒント:某有名幼稚舎が近い。

いや―おしゃれな街で気後れする。



児童書の取材。

聞いてくれ、また医療物なんだ😵もういーよお腹いっぱいダヨ🥺





でもやっぱ取材は楽しい。

今日初めてお会いしたのだが、担当の編集さんが漫画の編集さんぽくない。

とっても清々しくて明るい人やった。







なかなか経験しない事の一つに1月2日の一般参賀ってあると思う。

テレビのニュース映像で見る人がほとんどだろう。

今年の一般参賀は平成最後とあって15万人越えで

過去最多となったらしい。


日本の人口126,529,100人(平成30年7月の統計)の中に

どれだけの人が一般参賀で皇居を訪れたことがあるのだろう。



自分は平成27年の一般参賀に初めて参加した。

不敬と思われそうだが、この時マンガ日本の歴史を描いており

江戸城の写真資料が欲しかった。

ちょうど年末の時期でそれほど遠くないし皇居に写真を撮りに

行こうと思っていたのだが、あ、そうだ一般参賀に行って

みたいなとこの時思い立ち初めて皇居に足を運んだ。

皇居の周辺は警視庁を何度も写真を撮りに行ってるのでよく歩いたが

皇室入門と言う本を描かせていただきながら本当に

失礼極まりないのだが実際足を踏み入れるのは初めてだった。

お出まし時間は5回あるが、幾分早くに終わってしまうので

早めに家を出ないとならない。

自転車で駅まで行き、駐輪場の監視員の方に行ってらっしゃいと

見送られて改札に向かった。

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まず東京駅から人の波がずーっと皇居に向かって続いており

混雑が予想された。

途中、紙でできた日章旗をもらい、皇居前広場で

警察による手荷物検査とボディチェックを受ける。

ここから皇居正門に入り二重橋を通り皇居宮殿と向かうのだが

とにかく人が多い。

その中でもとりわけ目立つのが外人である。

他国の人間が日本の皇室に興味を持ち、

天皇陛下の新年を祝うお言葉を聞きに

わざわざこの地を訪れてくれることは、日本人として

とても誇らしいのだが、いかんせん声は大きいしタッパはあるし

目の前に立たれると背伸びをしたとて眼前に外人の後頭部しか

見る事が出来きず非常に腹立たしかった。

あと「ひゅーひゅー」とはやし立てノリが軽すぎで文化の違い

なんだろうから仕方がないがなんかちょっと嫌だった。

言いたかないが、郷に入っては郷に従えと言うではないか。

入るまでが長かったが、天皇ご一家のお目見えとお言葉は

本当に一瞬だった。

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外には皇室土産やカレンダーなどが売っていて

ライブの物販みたいだった。

その後写真を撮りながら、帰ったのだが

その後の回を見に来たという御婦人に皇居正門の道を聞かれ、

はるばる遠くから人生で1度、この日の為に来たという

言葉を聞いて改めて日本人で良かったと

晴れやかな気持ちになった。



地元に帰ってきてから駐輪場の監視員さんに覚えられていて

早かったねと声を掛けられ

銀座まで出てお茶しようとしたが何処も混んでいて入れず

帰った来たとしばらく立ち話。

実はその人、昔警視庁に勤務していて、よく一般参賀で皇居の警備を

していたのだと話していた。



その日のニュースで今年の一般参賀は平成で2番目の人出だったと

言っていたが、翌年記録は塗り替えられ毎年更新していった。



人生に1度は行ってみるのもいいかもしれない。



















その昔、劇場版相棒の宣伝のために

ロドリゲス井之介さんの漫画のネタにされたことが二度ある。

当時スペリオールで掲載されていた漫画で

何かを宣伝したい人は漫画にしてあげるから酒代払えって漫画。


そもそもロドさんとは、Mさんという大酒飲みの編集担当が

一緒だったって言うだけの縁なのだが

宣伝と銘打ってはいるが、大前提は面白いこと最優先なので

ネームが上がっていなかろうが、原稿の締め切りが

切迫していようが同じ担当作家と言うよしみ(?)で

お構いなしに借り出された。


1回目の時は、劇場版相棒でテレ朝の宣伝部の方と

2回目の時は相棒スピンオフの鑑識米沢守の事件簿だったのだが、

この2回目が最悪だった。


この時自分は、女性誌での連載が終わる少し前か終わったぐらいの

タイミングで相棒連載しながらビッグコミック増刊で

「鑑識米沢守の事件簿」のコミック版を描く前か描いた後か

よく覚えていないが、とにかくこの上なく忙殺しており

ほぼ寝る時間がない状態で過ごしていた。

当時を思い出すと何回も映画の試写など観に行ったり

今ではとても考えられない生活をしていたな・・・(しみじみ)


で、そんな中、漫画のネタ(映画の宣伝)の為に

借り出されたわけだが、

米沢役の六角精二さんと伊丹刑事役の川原和久さんが来ると知り

それはそれで楽しみだった。

編集者は、(先日ブログ記事にした)東映の撮影所で

有名俳優を前にした私が変な生き物状態だったので

また面白いエピソードになると思惑があったに違いないが、

ドラマ打ち上げにも参加させて頂いてたので

出演俳優さん、女優さんと写真を撮らせて頂いたりして

私自身少し免疫が出来ていたのにMさんは気付いていないようだった。

その日、私は締め切り前の原稿の事が気になっている状態で

集合時間が夜の9時でしかも朝食べたっきりの空腹という

かなり不機嫌な状況の中

手土産の高いブランデーを重たいのに2本持って都内に向かった。


待ち合わせた駅で、小学館のマルチメディアのAさん担当Mさん

ロドさんと合流し六角さんのプロデュースしたというバーに向かった。


で、

確か六角さんだけが先にいて後から川原さんが来たんだっけな・・・

川原さんは家で飲んでいたと少し酔った感じだったが、

この間お会いしましたねととても紳士に挨拶してくれた。

我々と二人の俳優さんとテレ朝の宣伝部の方と東映の方、

かなりの人数となった。

私とロドさんは川原さんと六角さんの前に座っていた。

お二人とも舞台役者さんだけあって声がでかい。

面白い話もたくさんした、と思う・・・

思うが、いや~ここではあまり書かない方がいいな。

書きたいが書けない!ゴメンネ。

とにかくいろいろあって私は原稿もあり先に失礼した。

酒は怖い。それだけにしておく。







結局、私が登場した二回は雑誌には掲載されたが、

単行本化はされなかったようだ・・・

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我が娘はMイトンと呼んでいた・・・










絶賛発売中やで
















皆さん、間近で芸能人と話をした事はありますか?


自分はまだ子供だった頃、初代・林家三平さんに握手して貰った事が

あるくらい。あとは笑っていいともでタモリにインコみたいだねと

話しかけられたぐらいしかない。


芸能人と話すどころか会える機会すら滅多にないから

会えるとしたらコンサートやライブ、手っ取り早くテレビの収録や

生放送の観覧、その後の出待ち程度のものだろう。

でもそれだとちょっと遠い。距離がある。

舞台公演を観に行くとそれを観に行く芸能人と意外に遭遇しやすい。

劇場の中やその周辺で『あッ!あの人や』ということがしばしば。

かといって声を掛ける訳でもなくただ通り過ぎるだけ。

明らかにプライベートだし自分から声を掛けるのは難しいし

ファンでもないのに「ファンです」とも言いづらい。



以前、ブログにコミック版相棒を描くきっかけとなった話を書いたが、

その当時は劇場版相棒の話をそもそも漫画にする案もあった。

その為、映画の台本も貰っていたが、何だかんだ過去の放送の

コミック化となった。

その際コミック版相棒の第1集の巻末にオマケ漫画を描いて欲しいと

いう話が東映さんから来ていて発刊前に東映撮影所取材となった。

当日は、ドラマのクランプアップの日で水谷さんも寺脇さんも

いると聞いて大緊張の中、大泉の駅で差し入れ片手に

小学館のマルチメディア局のAさんと担当編集Mさんと待ち合わせた。

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撮影を見るのが初めての上、あ、あの水谷豊を生で見れるなんて、と

膝がガクガク震えるわ、声は上ずるわ、

今にも心臓が口から出そうな状態で

撮影所まで行くと、不意に目の前に

当時のテレ朝のチーフプロデューサの方とか他のスタッフの方に紛れて

これから撮影するらしい水谷さんとバッタリ鉢合わせてしまい、

もう頭の中が真っ白になった私は後ずさりながらMさんの陰に隠れた。

その様子を冷たい目で見ていたAさんが

「何、変な生き物みたいになってんだよ」と嘲笑したが

耳に入ってこない。

そりゃあんた方は芸能人慣れしてるかもしれんが、

話するなんて聞いてなかったわ。

そっと撮影を見守り、特命係の写真撮るだけだと思ってたんだよ。



しかし、話はそれだけでは終わらなかった・・・



水谷さんにろくに挨拶もできない女と思われたに違いないと

ネガティブな思考のままスタジオに入るとすぐに

角田課長役の山西惇さんがいて

生で「暇かッ?」って言ってもらって嬉しかった。

さらにその奥に撮影スタッフの頭一つ出た形で寺脇さんがいた。

メチャクチャかっこいい。

水谷さんが撮影の間、組織5課のソファーで寺脇さんと少し話が

出来た。

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「昔、漫画家になりたかったんだよ」という話から

当時読んでいたマンガの話までさせて頂いた。

撮影が終わり、相棒ガイドブックのカメラマンに交じって

我々も特命係の撮影をして無事帰るかと思いきや

食堂でお茶しませんかとなった。もちろん水谷さんもいらっしゃる。

途端に緊張した。メチャクチャ眉間にしわ寄っていたと思う。

スタッフの方もいるし、AさんもMさんもいるし

大丈夫、大丈夫と心に念じながら食堂へ移動。

最悪なのはここからだった。

確か、その場には水谷さん、自分の他に5人いたと思うのだが

飲み物を注文しに蜘蛛の子散らしたように

皆いなくなり自分と水谷さんの二人っきりになってしまったのだ。

何を話せばいいのか、全く何も用意していないというか

焦りと緊張で本当に頭の中が真っ白になってしまった。

もっと困ったのは水谷さんの方だろう。

全く異業種の人間に何を話せばいいのかわからないに決まっている。

自分は自分であたふたとして変な生き物全開だ。

「熱中時代」観てました・・・北野先生好きでした・・・

と言うのが精一杯だった。

みんなが戻ってきてからは普通に相棒の話もできたのだが

本当にあの時ほど肝を冷やしたことはない。

あとからテレ朝の映画宣伝部の方が、AさんとMさんに

彼女を一人にするなんて、と注意してくれた。

変な生き物だなんだと言われたが、

結局AさんもMさんも緊張していたんじゃん?

そりぁ緊張もするよね、あれだけの大物俳優前にすりゃあ。

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あたちの太い足が写ってるけど勘弁してね


それ以降、打ち上げで水谷さんにお会いしたが、

あの時ほどの緊張はなかった。



次回は六角さんと川原さんと飲んだ話を書く。







相棒 pre season DVD-BOX
水谷豊
ワーナー・ホーム・ビデオ
2006-10-06




昨日、Yahooニュースで俳優の志水正義さんが亡くなった事を

知って驚いた。

あの「相棒」シリーズ、警視庁組織犯罪対策5課で角田課長の部下の

大木長十郎役で同じく5課の小松真琴役の久保田龍吉さんと

特命係をちらちら覗いてたと言えば誰もが知ってるだろう。



以前、東映の撮影所にお邪魔した時、こんな名も知れぬ漫画家に

「おつかれさまです」と声を掛けて頂いた。

緊張していた私は、頭を下げるしかできなかったが

その事はとてもよく覚えてる。

ご冥福をお祈りいたします。

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監修でお世話になっている医師は3人いてその中のお1人

「H先生」が、自分の地元の病院にいらっしゃると

聞いて、差し入れに伺った。

言わずもがな人気テレビドラマ「コードブルー」の

監修の先生のお一人。

他にも数多くのドラマや映画の監修をされてる。

診察時間内だったのでお会いすることは考えていなかったが、

挨拶だけでも出来たら幸いと出掛けた。

H先生には二度お会いしてるが、最後お会いしたのは、2年前。

しかし、ほぼ毎月のように様にメールのやり取りをしているので

そんなにお会いしていない感覚がない。

一応病院のHPを見て外来の確認をしたが、行ってみると

待合室が閑散としている、と言うか誰もない。

最近の病院は受け付けも支払いも全て電子化されていて

各科ごとの診察の受け付けもひとまとめになっており、

診察室のドアを開けない限りどこに先生がいるかわからない。

逡巡していると非常ドアが開き、そこから出てきたのは

なんとH先生だった。

取材の際、写真を撮らせて頂いて、もう何回も見ているので

私はすぐH先生とわかり「H先生!」と声を掛けたが、

先生はすぐに私とわからなかったようで

びっくりした表情をされていた。

「こやすです」というと二度びっくりした表情でこちらを見た。

おかしいな、先週原稿が終わったら伺いますとメールしたのだが、

忘れてしまったのかもしれないと気まずい感じになったが、

「ああ!どうぞどうぞ」と診察室に招き入れてくれた。

まさか、お話をできるとは思わなかったので、

滅多にないチャンスなのに取材用に何も筆記用具を持ち合させて

いないという間抜けさ。

しかし取材に伺ったわけではないし、

いつ患者さんが来るかわからなかったので

「念仏」の今後の事、ちょっとこちらの体制が変わる事、

先生の方の近況など本当に短い数分、矢継ぎ早にいろいろ話をした。

まるで医師と患者の様に向き合いながらwww

診察画面に患者さんが入ったらしく、早々においとましたが

診察室を出る際、「それじゃ先生またメールします」と言うと

「お大事に」と先生から言われて可笑しかった。


本当にユーモアのある先生だ。


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前回の日記
<取材の思い出 その3>



相馬野馬追の取材に行き始めた詳細な時期は、覚えておらず

写真のファイルか写真の裏にでも記載されているかと思いきや全く分からず・・・

当時デジカメでもいくらか撮っていたのだが、画像ファイルには

その年に撮ったであろう数枚の野馬追の画像があり、そのデータに

2004年とあったのでたぶん14年前。

当時の原町市役所(現在は南相馬市)のHPからその時の市長さんに

取材したい旨、メールしたらご丁寧に対応下さり、観光課の方を紹介され

中ノ郷(なかのごう)騎馬会長と会わせてくれるよう取り計らって

いただいたのが始まりだった。

関東ではすでに散ってしまった桜だが、桜前線は北上し福島ではちょうど見頃で

はらはらと舞い散る花びらの中を車で迷走したことを覚えている。



写真は相馬小高神社↓(写真をスキャナーで取り込んだのでゴミ付き)
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それから福島には数回行き来した。

ひばりヶ丘祭場でやる春競馬にも呼んでいただき、とにかく明るく

温かい人ばかりで有難かった。

鮭の遡上する新田川の写真を撮っている時もすれ違う人、すれ違う人

見知らぬ私に「おはようございます」とにこやかに挨拶してくれた。


新田川
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野馬追の見どころはやはり24日だ。しかし夏の祭礼でしかも盆地なので

会場は気温も高く、熱中症で倒れる人が続出し救急車の出動回数も

半端じゃなかった。すぐ目の前で胸骨圧迫を始めたりしていたが、

かく言う自分も具合が悪くなり座ってもいられなくなり最後まで

見届けられず車へ戻ったというかなり情けない思い出。



馬を走らせることもあったという烏崎海岸。

前回ブログでアップした堤防の2004年頃の写真。

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原町と烏崎の途中の海岸
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原町シーサイドパーク
サーフィンの大会会場とかにもなったらしい(キムタクも来たと自慢していた)
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写真はアルバム6冊分あった。

あの時私にとって福島は、自然豊かで美しく何となく懐かしいような場所だった。

震災後、あの原発事故があって腫物のように扱われ近付き難くなってしまった。

今、再建されている場所もあると思うが、手つかずの場所もまだまだ多いだろう。

土地を離れてしまった人もいるとニュースで聞く。

故郷を取り戻し復興を願わずにはいられない。




震災の日、私は自宅とは別の事務所でアシスタントの2人と原稿を描いていた。

14時46分、地震発生。

古い家だったのですぐさま外へ出るよう指示し、いつまでも揺れる地面に

恐怖した。空は鈍色で電線が大きく揺れていた。

同じ建物に住む人全員が飛び出してきた。

道を歩いている人も立ち止まって地震に気付いた。

アシ君が事務所1階のテレビを確認しに行くとどこかで火災が発生してると

口にした。

揺れがおさまり余震に気をつけるようアシ君に行った後、私は、犬が心配で

家の様子を見に行った。

玄関の熱帯魚水槽から水がこぼれ外まで水浸しになっていた。

水槽の水は半分まで減っていた。

仕事部屋の本棚からは本が飛び出し散らかっていた。

それからまたすぐ大きな揺れがあり和室の窓を開けると

掃き出し窓のペアガラスで相当重いサッシがガタンガタンと何回も左右に滑った。

目の前の電線も大きく揺れていた。

犬はずっと同じ場所に固まり動けずにいた。もうその日仕事する気にはならなかった。

仕事場に戻って電車が止まり自宅に帰れない子は、電車が復旧するまで事務所に

居ていいと言って泊めさせた。

コンビニが目と鼻の先にありエアコンとホットカーペットがあるので寒さは

しのげるし生活できる家電は揃っていたしお風呂にも入れる。

この教訓があり、のちに布団を購入し事務所に常備したのだが、

結局それは使わなかった。


家に帰ってから親戚や知人からメールが次々入る。

体に感じる余震が1日に何百回とあり揺れの前にドドドと地鳴りが聞こえる。

食事も喉を通らず、眠れず、繰り返される津波のニュースを呆然と

見てるしかなかった。後に分かった事だが自宅はハザードマップで

揺れやすい地域と知った。



もう7年も前の事だ。

最近は忘れていることも多い。だけど記憶は色褪せない。

それだけ大きな爪痕を残したんだ、あの地震は。












※今回の記事は震災の写真、表現がありストレスになる人もいるかもしれないので
 一応、閲覧注意。



ビッグコミックスピリッツ2012/12号に「相馬野馬追(そうまのまおい)2011」を

読み切りで描いた。

毎年7月23、24、25日に行われる相馬野馬追は相馬中村神社、

相馬太田神社、相馬小高神社の三妙見社の祭礼。

お行列はじめ野馬懸け(のまがけ)や甲冑競馬などが行われる。
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(画像は2004年の物)

自分はいつか野馬追を描きたくて2004年頃から車で数度福島に通った。

その話を覚えていた当時のスピリッツの編集長から声が掛かった。

この年の3月11日に起きた東日本大震災の震災復興祈念作として

野馬追をスピリッツで描くことになった。


亡くなった人も大勢いてさらに原子力災害区域の小高町などは警戒区域にも

なっており震災の年の野馬追の開催は危ぶまれていたが、

鎮魂と復興を願い祭祀をかなり縮小して行われる事となった。

自分は当時、コミック版相棒を連載しており、取材はライターさんと編集長だけと

いう話しだったが、結局自分も行くことになった。

2011年7月23日、東京駅から東北新幹線やまびこに乗り仙台へ。

震災の影響で常磐線が一部不通で仙台まで行って迂回しなければならなかった。

元来、取材は好きな工程だが、この取材に関しては出発する前日から気が重く

出来ることなら行きたくはなかった。

関東と言えど自分も被災しており震災で受けた心理的苦痛が大きかった。

当時は津波の映像が流れるたび涙が出た。

また計画停電の影響で駅もスーパーも暗く、家にいるのも落ち着かないので

犬の散歩ばかりしていた。

大きい余震が四六時中ありそんな状態の中、震源に近いところに行くなんて

もう憂鬱でしかない。

新幹線の車窓から所どころ青いブルーシートのかかっている家々が目に映る。

仙台に近くなるほどその件数は増えていき、気持ちもどんどん沈んでいった。

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仙台到着後、先にタクシーで福島入りしたライターさんを追いかけ

自分はレンタカーで向うも間に合わず、そのまま仙台のホテルに向かった。


翌日、編集長と合流しライターさんと3人で相馬太田神社へと向かう。

途中の国道は中央分離帯から半分無くなっており、遠くに見える電線は

ドミノの如くなぎ倒されており、黒い袋の土嚢のようなものや瓦礫が

所どころ積まれている。車の運転をしていた為そういった写真は撮れなかった。


7月24日は本来ならひばりヶ丘祭場までお行列があり神旗争奪戦など色鮮やかな

陣旗や軍旗、指物を翻した甲冑姿の侍、颯爽とした馬鎧を身に着けた

元サラブレッド達で盛り上がるのだが、一切それはなく

太田神社では鎮魂のための例大祭のみが行われた。

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その後、車で烏崎(からすざき)海岸へ向かう事に・・・

烏崎海岸を初めてみたのは朝焼けの美しい瞬間で本当にきれいな海だったのを

今も覚えている。

その変わり果てた地形、陸地に上がっている漁船、堤防沿いにあった

家々は一つも残っていない。強大な津波の力で圧し崩された堤防と

不自然な場所にある大きなテトラポット。赤いスプレーで書かれたバツ印・・・

その光景を目にしたら感情がこみ上げて来て涙声にしかならなかった。

皆、声を失ってた。

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この写真の奥に見えるのは、火力発電所。小さくて見えにくいが

瓦礫がたくさん積まれている。原子力発電所はここからは見えない。

今この記事書いてる間もキツイな・・・


その後、相馬中村神社まで足を延ばし震災で野良馬となった馬たちを見た。

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ここには馬の他にも保護された動物たちがいた。

野馬追の馬は、多くは引退した競走馬で昔、私が取材した時はみんな本当に

可愛がっており馬肉は食べられないという方もいた。

多くの動物たちも津波にのまれて死んだが、こうして命からがら

助かった子達もいて唯一癒された瞬間だった。






次回は以前の取材で撮った(フィルムカメラの写真)烏崎をアップしようと思う。

(つづく)











今日は久しぶりに朝から取材だった。

知り得ない出来事は本当に好奇心を揺さぶられる。



私が救急医療を描きたいと思ったきっかけはNHKの人気ドキュメント番組だったプロジェクトXの

コミカライズから。

当時から医療物が描きたくて最初、日本で初めて心臓のバチスタ手術をしたドクターの話を

希望していたのだが、その患者さんが亡くなられていて叶わず、

救命救急ER誕生を描かせてもらう事となった。

テレビで描かれなかった部分の先生方のインタビューが面白く一気にのめり込んだ。

現在の様に便利な医療機器が揃っていない時代にガイドラインも確かな治療法もなく手探りで

ギリギリの命に向き合い一生懸命でひたむきで新しい発見が常にあって充実している・・・

救急って面白い!と素直に感じた。

それを機に阪大の特殊救急部だった先生方に会える場をいただいた。

その場とは

「ザ・学術集会」である。 ナイス~ぅ

私はマスコミ扱いできちんとお金を払って参加させて頂いた。

怖いもの知らずというのは本当に恐ろしい。

日本の救急医療システムの構築を担ってきた言ってみれば重鎮の方々に

「とりま、ワンチャン取材よろ」的に会いに行くという・・・

必死に勉強されて医者となったキラキラした人たちの中に

アンポンタンな漫画家独りと言う何とも似つかわしくない図柄・・・

しかしそれ程までに好奇心が勝るのだ。

学会の雰囲気やシステムやスタイル、ほんの一握りの人にしか知らないシーンを

表現者が経験する事でもっと多くの人に伝える事が出来る。かっけー



3日間、開催される学会。私は2日目も参加した。

この日、面白そうな教育講演があって重鎮の先生とロビーで待ち合わせたのだが

昨晩の同窓会を楽しまれたのか待てど暮らせど来ず、

結局1時間遅刻されて次の教育講演しか聞けなかったが、大変有意義だった。

それは自身の作品「誰にも等しい明日」でも描かせてもらった児童虐待に関しての講演で

今までニュースなどで見聞きする事よりも現実の残虐さを目の当たりにした。

自分自身も子供がいるので他人の子成れど奥歯に力が入り怒りに打ち震えるほど

腹立たしいものだった。

当時はまだ虐待があってもそれを保護するシステムや周囲の危機管理が確立されておらず

虐待を疑っても親が事故と言えば医師は警察に届ける事はなかった。

虐待なのにそういう不慮の事故として片付けられて亡くなった子供たちを思うと涙が出てくる。

「念仏」でも虐待を描いた。決して漫画だけの話ではなく実際に起こっている事に唖然とし憤る。

ある医療者は「あーあ殴っちゃった」と言った。

私は主人公の松本なら怒りを抑えられず殴ると頭の中で描いていた。

だから因果の法則できちんとそれなりの制裁を受け入れたんだと・・・



こうしてあの時の取材は、今に活きていると思っているし、まだまだ描ける事あるなとは感じている。

こんな取材が出来るのも漫画を描いているおかげだ。

漫画が文化である日本に生まれてよかった。

そして、やっぱり取材は楽しい。















他人と共有する出来事で、自分は忘れているのに他人が覚えていると言う事は良くある。


少し前の話。

何年か前、ある会場でその場にいなかったBさんがAさんの記憶ではいた事になっていて

Aさんは「あの時、Bもいたよな」と話した。

Bさんと、その会場でAさんと一緒にいた私は

「いや、Bさんはその場にいませんでしたよ」とAさんに返した。

何だかややこしいが、Aさんは「いや、いや、Bは俺たちと一緒にいたよ!」と食い下がった。

それでもBさんと私は「いや、いや、いや、いませんって!」さらに食い下がる。

私とBさんの意見が一致しているのでAさんは「おかしいな~確かにいたのに・・・」と

いぶかしげ、納得のいかない様子だった。

まぁ大体、お酒が入っているし何年も前の事で記憶もあいまいだよねとその場は収まった。


そんな話をしたのは2か月前なのだが、その事を私の中では、すっかり忘れていた。

しかし先日何故か、新宿で取材した先の楽しかった思い出が深夜二時に急に蘇り、

それと同時に「いた、いない」事件の真相が鮮明になった。

Bさんは、所用でその場にいなかったが、その現場を後にした私とAさん、それにCさんが加わり

新宿のバーで飲んでいるところに所用を済ませ合流したのがBさんだった。

この記憶がAさんの中で一緒くたになってしまったのだろう。

記憶が繋がり、その夜降っていた雨が雪に変わっていたことまで思い出した私は喜々として

AさんとBさんにメールしたが、「そんなことあったっけー?」

と、二人にとって闇に葬られた記憶となっていた。


前置きが長くなったが、その取材先の楽しい思い出の中に、

上記の新宿のバーがあった。

そのバーは、ドラマ「相棒」がまだ土曜ワイド劇場と呼ばれている枠の二時間ドラマだった時に

出てきたバーだった。

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(普段、自分の漫画は読み返さないが、今確認したらコミック版相棒の2巻に入っている
 
 ストーリーに出てくる。)

基本的に取材は楽しいのだが、この新宿での取材が楽しかった。

正確には、同じくコミックスの2巻に入っている落語の話の回に末広亭が出てくるので

その末広亭での撮影取材だったのだが、劇中に出てくる花園神社や花園饅頭なんかも巡り

ドラマと一緒や~とか言いながら回っていた。

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そういえば花園神社近くの歩道橋はドラマのポイントになるのだが

放映時にはあった歩道橋は、取材時には撤去されて無くなっており

漫画では急きょ、ビルの非常階段にしたのを思い出した・・・いろいろ記憶が蘇る。

写真を撮りながら新宿二丁目界隈をぶらぶら歩く。

前述のバーは花園神社へ向かう道すがらで見つけ、真昼間だったので店は開いておらず

その時は外観の写真だけ撮った。

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その後、新宿中村屋でカレーを食べて帰ったのだが、たかがロケ地めぐりの取材だったのに

何故か楽しい記憶に入っている。


楽しい取材の記憶がもう一つある。

東銀座にある歌舞伎座の取材だ。今は建て替わってしまったが、建て替える前の旧歌舞伎座。

楽屋前やトンボ(前方宙返りして背中で落ちる)の練習場、

役者が実際に歩く順路で舞台下にある奈落のセリや

スッポンも直に見させてもらったり、煙幕は茶殻をいぶすと説明してもらったりした。

まだ午前の部の芝居がやっていて下手から初めて芝居を見た時は

何とも言えない感動があった。

客が引けてから男性にしか許されない花道を歩かせてもらったり、檜舞台から客席に向けて

立たせてもらい興奮したのが懐かしい。

あと、自分では買わない桟敷席からの写真も撮らせてもらった。

取材のためとはいえ歌舞伎を観に銀座も相当通ったが、歌舞伎座周辺は、

歌舞伎を観に来る芸能関係の人が多いので予期せずよく芸能人を見かけるので

それはそれで話のタネになる。


警視庁周辺で写真を撮っていると職質されないかな、とわくわくする。

江戸城を描くことがなければ縁遠い皇居で一般参賀に出向くこともなった。

ポーカーゲーム屋に客に成りすまして入って見たり・・・・・・

一生涯の内に経験できないことなど山ほどあるが、漫画の仕事を通じて

なかなか見られない内側を見たり聞いたりするのは好奇心と探究心が刺激され楽しい。

私にとって取材は漫画を描く仕事の中で、唯一の楽しみだったりするのだった。













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